日々の生活の中で、立ちくらみや疲れやすさを感じる「貧血」を、単なる加齢による衰えや体質として軽く捉えてしまうことは少なくありません。しかし、近年の脳科学および老年医学の研究によって、高齢期における血液の状態が脳の健康、特に認知症の発症リスクに極めて深く関わっていることが浮き彫りになってきました。
血液中で酸素を運搬する重要な役割を担っているのは、赤血球に含まれるヘモグロビンです。このヘモグロビンの値が低下する「貧血」の状態に陥ると、体内の各組織は酸素不足に陥ります。酸素供給が不安定になると、脳の神経細胞はエネルギー代謝を正常に行えなくなり、徐々にその機能を失い、最悪の場合は細胞死を招くことさえあります。
スウェーデンのカロリンスカ研究所を中心とした大規模な疫学調査では、貧血を抱える高齢者は、そうでない方と比較して、将来的にアルツハイマー病を含む認知症を発症する可能性が約1.6倍以上も高まるという、看過できないデータが報告されました。これは、貧血が単なる一時的な体調不良ではなく、脳の構造的な劣化を加速させる「静かなる脅威」であることを示唆しています。
さらに興味深く、かつ警鐘を鳴らすべき点は、貧血状態が脳内で起きている「病的な変化」とダイレクトに相関していることが科学的に証明されつつあることです。最新の血液バイオマーカー研究では、貧血がある方の血液中において、神経細胞の損傷を示す指標である「NfL(ニューロフィラメント・ライトチェーン)」や、脳内の炎症、いわゆる「脳の火事」の指標となる「GFAP(グルglial線維性酸性タンパク質)」の濃度が有意に上昇していることが確認されました。
つまり、貧血によって脳が酸素不足にさらされると、アルツハイマー病に特有の病理変化が促進され、神経細胞が物理的に壊れ始めているという動かぬ証拠なのです。特にヘモグロビン値が14g/dLを下回るあたりから、認知機能への悪影響が顕著に現れ始めるという具体的な数値も示されています。脳外科の視点から見ても、MRI画像に現れる微小な脳出血や白質変性の背景に、長年の貧血による慢性的な酸素不足が隠れているケースは決して珍しくありません。
認知症は、一度発症して神経細胞が失われてしまうと、現在の医療でも根本的な回復は容易ではありません。しかし、貧血については、食事療法の工夫や適切な内科的治療によって十分に改善・管理が可能な「修正できるリスク要因」であるという点が、私たちにとって大きな希望となります。
鉄分豊富な赤身の肉や魚、緑黄色野菜を積極的に摂ることはもちろん、ビタミンB12や葉酸といった造血に不可欠な栄養素の不足にも注意を払う必要があります。もし、ご自身やご家族に「最近、少し歩くだけで息が切れる」「立ちくらみが増えた」といった貧血の兆候があり、同時に「もの忘れ」が気になり始めたのであれば、それは脳が酸素を求めて発しているサインかもしれません。血液を若々しく保つことは、脳の寿命を延ばすことに他ならないのです。穏やかな毎日を末永く過ごしていただくために、まずはご自身の「血液の質」から見直してみることを強く提唱いたします。
医師 菊池清志
注)本コラムは、情報提供を目的としたものであり、当院・医師の意見・方針を反映したものではございません。
参考文献:Valletta M, et al. JAMA Netw Open. 2026;9:e264029.
「もの忘れ」に関するお悩みは、当院の「もの忘れ外来」へお気軽にお越しください。
Web予約