私たちの健康は、食事や運動といった生活習慣だけでなく、日々過ごしている「住環境」からも大きな影響を受けます。近年、室内の空気質が認知機能に与える影響について関心が高まっており、例えば暖房などで使う固形燃料の燃焼や、建材から放出されるホルムアルデヒドなどが、リスク因子として報告されています。
そんな中、中国の研究グループが、非常に身近な室内環境の問題である「カビ」が、高齢者の認知機能障害と関連している可能性を大規模な調査で明らかにしました。この研究は、中国全土で行われている地域住民ベースの縦断研究(CLHLS)の2018年のデータを用いたもので、60歳以上の高齢者11,888人が分析の対象となりました。
この研究では、「ご自宅でしばしばカビのにおいを感じますか」という質問への回答に基づき、参加者を「カビ臭あり群」と「カビ臭なし群」に分け、両者の認知機能の状態を比較しました。認知機能の評価には、世界的に広く用いられるMini-Mental State Examination(MMSE)の中国語版が用いられ、一定の点数(24点未満)を下回ると認知機能障害の疑いありと判定されました。
分析の結果、自宅でカビのにおいを感じると回答した人々は、そうでない人々と比べて、認知機能障害を持つ割合が統計的に有意に高いことが明らかになりました(31.01% 対 24.31%)。
もちろん、この二つの事柄の関連には、他の要因が影響している可能性も考えられます。例えば、カビが発生しやすい住宅環境は、経済的な状況、換気の状態、あるいは使用している燃料の種類など、他の健康リスク要因とも関連しているかもしれません。
そこで研究チームは、年齢、居住地(都市部か農村部か)、教育歴、運動習慣、喫煙・飲酒の有無、さらには高血圧や脳卒中といった基礎疾患の有無など、認知機能に影響を与えうる様々な要因の影響を統計的に取り除いて、再度分析を行いました。
その結果、これらの多くの要因を調整した後でも、「自宅のカビ臭さ」と認知機能障害との間の明確な関連性は依然として残りました。調整後の分析では、カビ臭さを感じる人は感じない人と比べて、認知機能障害のリスクが約34%高い(オッズ比1.34)という結果でした。これは、カビそのもの、あるいはカビが繁殖しやすい湿度の高い環境が、何らかの仕組みを通じて脳の健康に好ましくない影響を及ぼしている可能性を示唆しています。
自宅のカビが認知機能に影響を与えるメカニズムについては、まだ解明されていませんが、いくつかの可能性が考察されています。
一つは、カビが産生する「マイコトキシン」と呼ばれる毒素の影響です。特定の種類のカビは、神経系に有害な毒素を放出することが知られています。これを長期間にわたって吸い込むことで、脳の神経細胞にダメージが与えられ、結果として認知機能の低下につながるという可能性です。
もう一つは、カビの胞子や代謝産物が引き起こす「慢性的な炎症」の影響です。カビを吸い込むと、体内でアレルギー反応や免疫反応が起こり、持続的な炎症状態となることがあります。この慢性的な炎症が血流に乗って全身を巡り、脳にも影響を及ぼすことで「神経炎症」を引き起こし、もの忘れや認知機能の低下を招くという考え方です。
今回の研究は、ある一時点での関係性を調べた横断研究であるため、カビのにおいが認知機能障害の「原因」であると断定することはできません。しかし、両者の間に強い関連があることを示した意義は大きいと言えます。研究者らは、「高齢者の自宅環境の改善を図る際は、効果的なカビの管理を実施することが望ましい」と提言しています。
特に日本の夏は高温多湿であり、カビが発生しやすい環境です。日頃から室内の換気を心がけ、水回りを清潔に保ち、結露をこまめに拭き取るなど、カビの発生を防ぐための対策を講じること。それは、呼吸器の健康を守るためだけでなく、将来の「脳の健康」、すなわちもの忘れや認知症の予防にとっても重要な生活習慣となる可能性があります。
菊池清志
注)本コラムは、情報提供を目的としたものであり、当院・医師の意見・方針を反映したものではございません。
参考文献: Liu X, et al. Sci Rep. 2025; 15: 31943.