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脳の記憶領域に直接届けるインスリン点鼻スプレーとアルツハイマー型認知症治療の新たな可能性

脳機能とインスリンの密接な関係

インスリンと聞くと、多くの方は血糖値を下げるホルモンとして、主に糖尿病との関連を思い浮かべるでしょう。しかし、近年の研究で、このインスリンが私たちの脳の働き、特に記憶や思考といった高次の認知機能においても重要な役割を担っている可能性が注目されています。実際、インスリンが効きにくくなる「インスリン抵抗性」の状態は、アルツハイマー病の既知のリスク因子の一つとされています。このことから、インスリンをうまく脳に作用させることができれば、アルツハイマー病の新しい治療法につながるのではないかという期待が高まっています。

しかし、ここには大きな課題がありました。血液中に投与されたインスリンは、脳に到達する前に体中で使われてしまうため、脳だけに効率よく届けることが非常に難しかったのです。そこで開発されたのが、鼻からスプレーでインスリンを投与する方法です。鼻の粘膜から吸収された薬剤は、血液脳関門というバリアを通過しやすく、直接脳に届きやすいと考えられてきました。しかし、これまでの研究では、鼻から投与したインスリンが「本当に」「脳のどの部分に」届いているのかを直接確認できていませんでした。

点鼻インスリンが脳の記憶中枢に到達することを画像で確認 

この長年の疑問に終止符を打つ画期的な研究が、米ウェイクフォレスト大学の研究チームによって行われました。研究チームは、認知機能が正常な高齢者と、もの忘れなどの症状がある軽度認知障害の高齢者、計16人を対象に、インスリンを配合した点鼻スプレーを使用してもらい、その直後に脳のPET検査を実施しました。これにより、インスリンが脳内でどのように分布し、時間とともにどう変化するのかを画像で可視化することに成功したのです。 

その結果は、研究者たちの期待を裏切らないものでした。インスリンを投与してから40分間、記憶を司る「海馬」や感情に関わる「扁桃体」をはじめ、記憶や思考に重要な役割を果たす11もの脳の領域で、インスリンの取り込みが明確に増加していることが確認されたのです。これは、点鼻スプレーによって投与されたインスリンが、まさに治療の標的とすべき脳の重要な領域に、確かに到達していることを示す直接的な証拠となります。 

認知症治療に向けた今後の展望

 さらに、この研究では興味深い発見もありました。認知機能が正常な人の方が、軽度認知障害のある人よりも、脳へのインスリンの取り込みが高い傾向が見られたのです。また、アルツハイマー病の原因物質とされるアミロイドβのマーカーが高い人では、複数の脳領域でインスリンの取り込みが低下していました。これは、病気の進行度によって、脳がインスリンを取り込む能力が変化している可能性を示唆しており、今後の治療戦略を立てる上で重要な知見となります。

研究チームは、今回の研究が脳に薬を届けるための「明確な道筋」を示したと述べています。これまでは手探りだった脳疾患の治療薬開発において、薬剤がきちんと標的部位に届いているかを確認できるようになったことは、非常に大きな進歩です。今後は、より大規模な研究を通じて、血管の状態やアミロイドβの蓄積、性差といった他の要因がインスリンの脳への送達にどう影響するかなどを調べる計画であり、アルツハイマー病に対するより効果的で、患者さんにとっても負担の少ない新しい治療法の開発が加速することが期待されます。

菊池清志

注)本コラムは、情報提供を目的としたものであり、当院・医師の意見・方針を反映したものではございません。

参考文献:Craft S, et al. Alzheimer’s & Dementia: Translational Research & Clinical Interventions. 2025 Jul 23.